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もうひとつのにはしのたはこと


























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2016-12-14 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

辞書から 9

その3「場所」

②居る所。席。  例:「場所をあける・場所をとる」


・人の居場所

個人に限らず集団においても人間は無意識に居場所を誇示し、刻印を記そうとする。
それは地名がある事に表れている。
人間は混沌とした環境から特色を読み取り、地域や場所に名称を付けることによってよりどころを見出してきた。
それが実存する場所に対しての多様な関係と経験や追憶に基づく結びつきの形成へとつながる。
だから人間に住まわれた場所では名称を持たないものはない。
これは自らの居場所に愛着を持とうとする人間の根源的な欲求ではないだろうか。
「居る所」が場所なのであれば人間と場所は一体であり、切り離して考えることはできない。
自分があけた席は自分の席ではなくなるが、自分の居る場所は誰かの場所とは違う自分の場所である。
世界の中での自らの存在は唯一無二の固有のもので誰もが共通して持ち合わせている。
つまり、人間が場所なのだ。

つづく









2015-02-11 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

辞書から 8

その3「場所」

①何かが、その上・にある(で行われる)と認められる広がり。
  例: 「時と場所・場所を踏む(=経験を積む)・君、それは場所が違う(=それを言うべき場合ではないよ)」

・「何か」が存在していることが前提。
・「何か」の下方である。
・「何か」を認識する第三者がある。
・「何か」そのものよりも大きい。

何かが ・にある に加えて(で行われる)とあることから「何か」とは物だけではなく行為も意味することがわかる。
そして、それを認識する第三者があってはじめて場所として成立する。
例:「時と場所」は言いかえてみれば「その時の状況」であり、さらには「ある出来事」だといえる。
「場所を踏む(=経験を積む)」は 繰り返される出来事、
「君、それは場所が違う(=それを言うべき場合ではないよ)」は 好ましくない出来事の認識 と捉える事ができる。
行為に限らず、物がある というのもひとつの出来事であり、仮に物がなくても無いという出来事を認識している。
「何か」とはある位置が経験する物事を表す。
そして、その外側の不明確な範囲が「広がり」であり、それ自体は地理を持たない。
第三者による「何か」の認識がない限り、「広がり」だけでは大きすぎて何処なのかはわからないのだ。
つまり「場所」として位置を特定することができるのは、そこで起こる出来事を含めた物事の実態によるものだといえる。

つづく









2015-02-07 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

辞書から 7

国語辞典から「庭」と「園」について考えてみると、それぞれ性格を持った場所であることが分かった。
では、場所とは何だろうか。

その3「場所」

(国語辞典によると)
①何かが、その上・にある(で行われる)と認められる広がり。
  例: 「時と場所・場所を踏む(=経験を積む)・君、それは場所が違う(=それを言うべき場合ではないよ)」
②居る所。席。  例:「場所をあける・場所をとる」
③すもうを興業する・所(期間)。  例:「場所入り・夏場所」

つづく









2015-02-02 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

辞書から 6

「園(その)」
②場所。  例:「学びの園(=学園・学校)」

・(言いかえているということは)特定の位置と用途がある。

例に挙げられているように学校のことを「学びの園」としているのは「庭」の③[・・雅語的表現]と似ている。
しかし、それとの違いは客観的に捉えることができるという事ではないだろうか。
「庭」がある人だけにとっての主観的存在だったのに対して、具体的な用途があればそこは自他ともに認める「園」となる。
「学園・学校」は学ぶことに専念できるようにつくられ、そこは安全を確保された空間となっている。
「保育園や幼稚園」を挙げても同様に考えられる。
さらにそれは有害なものを除外するために区切り、土や花を育む人がいる①とも精通している。
つまり「園」とは 「危険を排除した中で人々の営みが平和に行われる場所」 だと言える。

つづく









2015-01-30 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

辞書から 5

ひきつづき国語辞典をひいてみる。

その2 「園」

「園」(その)   
①花などを植える、一区切りの・地面。
②場所。 例:「学びの園(=学園・学校)」

①について考えてみる。
・ただの地面ではなく、花のための肥えた土がある。
・区切りがあるということは何かに囲われている。
・用途が明確。

これだけでまるで花壇のことを表しているようだ。
確かに部首の くにがまえ は周囲をぐるりと囲んださまを示す。
そして、中の「袁」は [ゆったりした衣服] を意味する。
という事は、囲まれた中に人がいる様子であるといえる。
しかし、花壇そのものを表すのであれば くにがまえ に草花を表す部首があればよい。
ところがただの人ではないところが面白い。
くにがまえ に「人」の場合は罪人がいる「囚」であるのに対して大きな違いだ。
花を植えるのは人であり、そのための肥えた土をつくるのも人の力によるものである。
有害なものを寄せ付けないように仕切られた区画の中で人が楽しく土を触るさまが垣間見える一文字だ。

つづく














2015-01-23 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

辞書から 4

いざ子どもあへて漕ぎ出むも静けし / さあ皆んな、もう漕ぎ出そう、海も静かであるから。/万葉集 388」

なぜ海のことを庭と表現しているのか考えてみると、
 海 → 漁場 → 「なわばり、territory」  
という洗練がなされていると考えられる。
古代より人は生活を支える食物を海に求めた。
それは農耕の時代となっても変わらず、収穫は一定のなわばりで行われる。
収穫は生きる上での喜びであり、感謝であり、自然の恩恵であった。
そしてその中での感性的世界を「庭」と表現したのだろう。
これは①「屋敷の中で・・・」と繋がり、②「農家の・・・作業場」とも合致する。
①では歓楽的、②では機能的に、そして③では元来の意味を総括して物語っている。
したがって、ある場所に「庭」としての意味が占有しているのは、草木、山・池ではなく、農家の作業でもなく、人の心象なのだといえる。
その証拠に③の例に挙げられている「学びの庭」「戦の庭」「庭の教え」は個別的主観性のみがその場面と状況を特定できる。
他力による偶発的なものであっても自らに降りかかる事が他者も同様に受け取るとは限らない。
「雅語的」でなければ表現できない所以はこれである。
しかし、それでは「庭」とは 「ある人 が生きる上での情緒的な関係を築くことの出来る状態になっている とある場所。」という意味になる。
これではあまりにも意義が深く広すぎてどうも捉えられない。

つづく

















2015-01-20 : 未分類 : コメント : 1 : トラックバック : 0 :

辞書から 3

「庭」
③特定の何かをする場所の意の雅語的表現。
例:「学びの庭」「戦の庭」「庭の教え(=家庭での教育)」
※「雅語」・・口頭語で使うとそぐわないが、詩歌・古文の表現に用いられた、洗練された和語。

・①②のような具現的な形はない。
・ある性格を持つ場所の代名詞。

詩歌・古文の表現の一例
〈万葉集 388〉
海神は くすしきものか 淡路島 中に立て置きて
白波を 伊予に廻らし 居待月(ゐまちづき) 明石の門(と)ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干(ひ)しむ
潮騒の 波を畏み 淡路島 礒隠り居て
いつしかも この夜の明けむと さもらふに 寐(い)の寝かてねば 滝の上の 浅野の雉(きぎし) 明けぬとし 立ち騒くらし
いざ子ども あへて漕ぎ出(で)む 庭も静けし


海神は奇怪なものか、淡路島を中に立て置いて、
伊予に白波をめぐらし十八夜の明るい明石の門から夕方になれば満ち潮にし、夜が明ければ干き潮にする。
潮騒の音を畏れ、淡路島の磯に隠れて居て夜明けはいつかと寝ずに居て、
夜を明かせば、海に続く滝の上の浅野にいる雉が、夜が明けたと鳴き騒ぐ。
さあ皆んな、もう漕ぎ出そう、海も静かであるから。

ここでは「海」を庭と表現している。

つづく













2015-01-20 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

辞書から 2

「庭」
②農家の前にある広い作業場。

・農家の活動にとって必要不可欠で常に機能に徹した場所。
・作業場ということは平らな土場である。
・①と比べると、何かを鑑賞するための創作はない。

歴史的な観点からすると①が庶民の手に入ったのはごく最近の事であるが、脱穀や乾燥など農作業の場としての庭は農家が農民だった時代から現代にも残っている。
仮に、②と①を混同してみると、広く平らであるべき土場に草木、山、池があると農作業の場として成り立たない。
逆の場合も同様で①が機能的な平地であれば視覚効果はないと見なされるだろう。
したがって①と②はその形状と存在から、同じ語句でありながら真逆の意味であると捉えても相違ない。

つづく










2015-01-16 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

辞書から 1

いたって素朴な興味から国語辞典でいくつかの語句を引いてみた。
すると、今まで思い込んでいた事とは異なり面白いのでひとつずつ整理してみたいと思う。

その1. 「庭」  (......意外なことに意味が3つも記されている......)
①屋敷の中で目を楽しませるように草木を植え、山・池を作った所。
②農家の前にある広い作業場。
③特定の何かをする場所の意の雅語的表現
  例「学びの庭」「戦の庭」「庭の教え(=家庭での教育)」


まず①について考えてみる
・範囲に限りのある敷地内で、草木、山・池を見ると楽しいと前提された視覚的な効果を目的としている。
・鑑賞するのは植物、地形、水を材料とした自然物の形態、もしくは自然現象である。
・創作された場所であり、生活機能として必要なわけではない。

自分を含め一般的には有無をいわず①こそが庭として認識されていて、この創作に精を出す。
しかし、②③がある限り①だけを定義とするには浅はかなのは確実だ。

つづく










2015-01-13 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

写真

もともと写真には興味がなかった。
ホームページの写真は自分で(超)適当に100枚くらい撮って映えそうな数枚を載せている始末。
その中でもお気に入りの写真なんて一枚もない、というより何をもってして良い写真というのかすらわからない。
いつか一眼レフを買えばそれなりの撮り方がわかるようになるだろう、と安易に考えていた。
そんな矢先に、まともな写真を撮らないといけない機会ができてしまい、仕方がないので撮影を依頼するためにあるカメラマンとお会いした。
知ったかぶりでも何か要望のひとつでも用意しておこうと見本になりそうな庭の写真集を持って行ったが、結局彼はそれを見なかった。
それどころか「好きにやらせてもらいますね」そう言ってくれたおかげで、あらかじめ用意しておいた半端なものは出さずに済んだ、と同時に少々恥ずかしい気がした。
考えてみれば当たり前のことだ。
この庭をこんな写真に撮ってください、というのは、写真にこう映る庭にしてください、と同じという事になる。
僕がやるのは庭づくりかもしれないが、そもそも写真映えするように意図しているはずもなく、その評価が写真に集約される意思を持っていない。
写真には独自の観点があり、庭が被写体なのは写真家にとってだけで良い。
僕は被写体づくりを出来なくても良いのであって、単調な役割に従事するにすぎないのだ。
ハッキリしている事は今後も写真に興味を持つ必要は全くないということ。
もしも僕の観点が写真に表れるとしたら、庭師なんか辞めて写真家になろうと思う。


2014-07-07 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

ホームページ

心機一転とはこの事かと水野さんのおかげで気が改まった。
自分にとってはそれほど重要ではないと思っていた環境も、こうなると満更でもない。
部屋を掃除したような、いや、模様替えのような清々しい気分だ。
しかしながら自分でやったことではないので、その例えは当てはまらない。
僕のやるべき事は、せいぜい散らかさない程度にモノの備えを満たしていくことだ。
いつ誰が来てくれても良いように。










2014-02-22 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

素材

当たり前のようであるが、造園はチカラ仕事だ。
だから、素材と向き合うことは絶対に避けては通れない。
素材とは材料のみならず、現場そのものである。
今さらながら近頃感じるのは、実はそこには勇気と体力を要する。
意識的にそれを覚悟しておかないと下手な空間づくりに逃げてしまうかもしれない。
特異な才能でもあれば、その方が楽をして売れるかもしれないが、不幸にして僕は凡人であるからしてやりたくても出来ないのだ。
やはり職人であれば、せいぜい自分も素材の一つとなり、勇気をもって一生懸命遊ぶのが本望なのだ。
2013-03-14 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

12年

今日、世間はバレンタインデー。
しかしそれは僕には縁遠い催しであって、実は櫻井造景舎12周年の記念日だ。
何をやってきたのか、何ができるようになったのか、振り返ると反省ばかりなので思い出さないようにするが、
今日目の前にある事を一生懸命やるだけ。欲に捉われない。執着しない。ありのままの自分。 
という姿勢で日々を積み重ねられれば申し分ない。
2013-02-14 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

指令台

松の剪定は難しい ということになっている。
なぜなら、手を入れるのは必ず熟練の親方だからだ。
勤めていた修行時代、庭の手入れに入ると、松は親方、刈込やそうじは下っぱと決まっていた。
「遅いぞ早くやれ」「それが終わったら次は・・」などと高い松の樹から指示が下りてくる。
刈込鋏の手を止めて見上げると青い空の手前で涼しげに透けた松の枝が気持ち良く、早くあれができるようになりたいと憧れていた。
憧れながらも刈込やそうじに勤しみ、次第に葉もの(広葉樹)の枝打ちをやらせてもらえるようになる。
その難しさと奥の深さに打ちのめされながら数年もやると、やっと松の残りのひと枝くらいを手伝わせてもらえたりもする。
いざやってみると、それまでやってきた枝打ちとは全く違うものではあるが、不思議と難解さはあまりなかった。
もちろん簡単ではないが、葉ものの枝打ちの方が難しいのではないだろうか・・と他事を考えながらでもできそうな、そんな気が片隅にあった。

それから十数年後の今日、僕は松の木に登ってスタッフに指示を出していた。
もう11年僕が手を入れているその松は慣れたもので、古葉を引きながら庭全体を見渡すことができる。
下で刈込や枝打ちをしている様子がよく見えるのだ。
そこで初めて気が付いたが、松の剪定が難しいのではなく、難解な仕事の奥深さを後輩に叩き込むための指令台のような親方の居場所だったのかもしれない。
その場所を獲得するには奥深さを十分に紐解くことができるようになってこそという前提があるが、僕はなぜか郷愁のような寂しさを感じた。
来週手入れに入る庭では刈込をやろうと思う。
2012-10-27 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

邪道

偉人と呼べるような先人が発案し、後世に受け継がれる本道がある。
誰しもその道を極めようと修行を積むものだ。
自らの師を求め、伝承通りの概念を美意識として身につける事は立派なことといえる。
そこで芽生えるこだわりは間違いなく価値のあるものだと思う。
しかし、先人が見たらどうだろうか。
「わしの猿真似か?このへたくそ!」と言うかもしれない。
発案者である先人と同じ目線になれば、下手なこだわりは捨てざるを得なくなる。
古くから伝承されるものも元をただせば新しかったのだから、始まりは無垢の状態であるはずなのだ。
こだわりが邪魔をして本来の苦しみや楽しみを拒否してしまうのは窮屈だ。
無垢で空っぽになった方が色んなことを素直に受け入れられる。
そして本道とは離れ、堂々と邪道を始める自由を得ることができるのだ。
邪道に実りがあるかどうかはわからないが、少なくとも先人と同じ姿勢でチャレンジができる気がする。
2012-09-08 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

息子と親父

夏休みの宿題をやり終えた長男と二人きりで初めて自転車で遠出した。
小学生最後の夏休みということで息子の思い出づくりという思惑があったものの、
どちらかというと親父の思い出づくりという節が大きかったかもしれない。
それもそのはず、彼の年齢と僕の親としての年齢は同じなのだ。
小さくて可愛いと思っていた息子もいつの間にか大きくたくましくなり、親から離れていくことは至って自然なこと。
自分がそうだったようにわかっていることであるが、少し寂しい気がするのは否めない。
ただ願っているのは、夢を抱いて精いっぱい紆余曲折しても普通に平凡にいてほしい。
それがどんなにすごい事なのかを実感できるために、ただの親父として見守ろうと思う。
しかし、その気持ちは僕自身が息子として親に感謝するべき事でもあるのだ。
親孝行とは何なのか、奇しくもそんなことを考えてしまう一日となった。
2012-08-27 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

成果

自分が正しいとしていることは往々にして間違っている。
良いと思うことは大して良くもなく、工夫は自分自身の問題であって伝えるためのモノではない。
美しく見えるものは自分だけがそう感じることであり、誰かと共有できるはずはないのだ。
庭師は職人であるから、庭を作ってはいけない。
先例の模倣踏襲はおろか、視覚に限定した美しい装飾庭を強要するのはおこがましい。
その場にあるモノとコトとの相関の中で意味を求める事に努めないといけない。
そのほとんどは形の洗練であり、見えるモノではない。
しかし、庭師の仕事の成果は必ずもう一つの「時と場所」になるのだ。


2012-08-25 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

木陰

暑い季節は日照りを避けて休憩したくなる。
直射日光を浴びながら仕事をしていると日陰で一息つくが、ただの日蔭よりも木陰の方が断然涼しい。
それは樹が体温調節をしているからであり、ただの僕の気分ではないのだ。
水は植物の体内を流れ、大部分は葉から出ていく。
光合成に使われる水はわずか1%以下であり、体温調節の方がよほど重要のようだ。
気温がどうあれ、体温が2℃も上がれば大問題となる人間の体と似ているのかもしれない。
1gの水が蒸散すると539calの熱量が奪われ、その気化熱によって葉の温度は低下する。
強い日光を受けても葉が正常に青々としているのは熱や光に動じていないのではなく、湿度、風、土壌水分などが複雑に作用しているからである。
外界からの刺激を感受し、一連の反応を成す樹に僕は心地よい気分にさせてもらっているのだ。
炎天下の現場も木陰での休憩さえあれば熱さを冷やすことができるから、頑張って耐えてみようと思う。
2012-07-17 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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さくらいやすとし

Author:さくらいやすとし
櫻井靖敏
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Yasutoshi Sakurai

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