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散歩

時々散歩をする。
当然のことながら、散歩というのはただ歩くだけで目標や目的地があるわけではない。
どこかへ到着するための移動とは違い、歩くこと自体を楽しむのだ。
そこで何かを得ようとしなくてもよく、何も見なくても良い。
ただ風と光を浴びて空の下にいることが日々に必要なすべてだと知るひと時なのである。
だから社会の出来事や人々の行い、自分の欲すら滑稽に思えたりもする。
幸せを願ってはいるが今は別に不幸ではない。
貧乏ではあるが、家賃を払いちゃんと食っている。
友達は多くはないが、気の合う人はいる。
やりたい事や欲しい物はたくさんあり、それらの願いが叶うように信じて日々を過ごしている。
しかし実のところ、それが実現するかどうかの結果は無くても良いのだ。
歩くことを実感して楽しんでしまえば、そこが目的地になってしまうのだから。
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2012-04-29 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

さくら

ソメイヨシノの桜並木があまりにもきれいなので自分の自然観が危うくなる。
幕末の頃、人為的につくられた園芸品種が明治政府の奨励によって全国津々浦々に植樹された。
それがソメイヨシノと名付けられたのは明治33年のこと。
それ以前の桜といえばヤマザクラであったことを考えるともっと清楚だったに違いない。
実のところ、今眺めている花満開の景色を自然のものとして捉え、桜だけ、花だけに特化して春の訪れを感じる程度の自然観では庭師としては浅はかなのだ。
栽培種だろうと外来種であろうと善し悪しを私情で勝手に判断せず、すべてを受け入れて柔軟に身を委ねるように寛容であるのが理想的だ。
花満開がサクラでなくても季節の移ろいを見つけることはできているはずなのだ。
だから、たった150年前に誰かに作られた派手で優美なクローンにウットリさせられてしまうのは口惜しい限りである。
とはいえ、桜並木がきれいなのは庭師としての自然観よりも僕の郷愁がそうさせる。
今のところ、その程度の庭師なのかもしれない。
2012-04-12 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

道具

先日、愛車('66式)のエンジンが突然止まり路上で往生した。
長い間乗っていると、そんなことは何回でも経験済みなので大した故障ではないことはわかっている。
どうせマイナスドライバー1本で数分で修理されてしまうのだ。
それでも古い車は大変な乗り物だ。
ハンドルが重くて疲れるし、振動が大きくて音はうるさく、暑くて寒い。
若干の荷物は積めるが、人が運転すること以外の機能が一切ないのだ。
しかし、走るための大きな道具としてはその方が良い。
近年の車のようにメーカーが作ってくれる快適性は何もないが、頑張って使いこなす面白みがある。
人に寄り添った誰でも使いやすい商品とは違い、自分だけの魅力を見出せるものの方が楽しいと思う。
壊れにくく使いやすいモノを選ぶのもよいが、道具にふさわしい自分をつくってしまうといつの間にかかけがえのない存在となってしまうのだ。
乗り物に限らず人と道具の関係、愛用品とは本来そういうものではないだろうか。
2012-04-03 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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さくらいやすとし

Author:さくらいやすとし
櫻井靖敏
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Yasutoshi Sakurai

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