スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
-------- : スポンサー広告 :

加害者

例えば友達の家が耐震設計されていない建物であったとして。
それでも彼らが幸せにくらしているので僕はその暮らしぶりが羨ましくて自分も家が欲しいと思う。
ところがある日、地震で倒れて火事になり友達は大きな被害を受ける。とする。
ご近所やご親戚にも迷惑をかけているのを見てしまったが、それでも僕は同じような家に住むだろうか。
危険な建物なのだと知りながら住んでいれば、もし地震で倒れて火事を起こしたら自分の家だとしても僕は被害者ではなく、加害者になるのだ。
色んな人に損害や迷惑をかけ得る事は可哀想な友達の一件でよく分かった。
福井県の人は福島県で事故があったことを知らないのだろうか。
次にもしもの事があれば福井県は被害者ではないのに。
2012-06-18 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

樹と水の妙

水と植物について考えると奇妙な事に気が付く。
樹にとって水はもっとも重要ではあるが、樹に水を吸う力があるわけではないのだ。
土の中で水分張力によって上昇移動した水は養分が溶け込んだ土壌溶液となる。
溶液の濃度差により滲透圧が働いて、薄い土壌溶液は濃い溶液をもつ根の細胞内へ移る。
道管という根から葉までの水の通り道では柱状に水が吸い上げられていて途切れない。
それは水の分子の凝集力が強いからであるが、水を引っ張る力は大気によるものなのだ。
土から根へ樹の体を通して葉から大気へと水分が放出しているのは水蒸気圧の差なのである。
樹の根が水を吸い取っていると錯覚しがちであるが、樹の体を通って水の方が移動している といえる。
そう考えて樹を眺めるとその背景に大地と大空を同時に感じることができてとても面白い。
2012-06-16 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

水の旅

雨は空から降り落ちてくる。
地面の高いところから低いところへと流れ集まり、やがて川へ行き海へと旅をする。
目で見ることのできる水を少し想像をするだけで楽しくなるものだ。
ところが見えない水分についてはなかなか難しい。
土壌中の水分は重力に抗して10m以上も上昇する。
湿ったところから乾いたところへ毛管移動するというのだから「滲み上がる」感じだろう。
水分張力と呼ぶその力によって湿った土は空気中に水を放出し、逆に乾いた土は空気中の水分をも吸収する。
目に見えない水分は見える水とは違う動きをしているといえる。
少しでも水になったつもりで地中から大気中へ空高く旅をする想像ができるとまたさらに面白い。
2012-06-09 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

テディベア

テディベアはよく知られたクマのぬいぐるみ。
以前、「美の壺」という番組で紹介されたていた。
その中で、初めて作られてから100年以上も長く愛されている所以が説かれていた。
1つめは野生の熊の骨格に忠実に作られているということ。
2つめに手触りを大切に考え高級なモヘアを使っていること。
3つめは笑っても泣いてもいない無表情を追求したこと。
正直なところ、たかがぬいぐるみがそんなに整然と作られているとは思いもせず驚いてしまった。
偏った脚色のない忠実な形は素朴でありながら誠実である。
それに眺めて見るために飾るものではなく触る度に自分の心境を投影できる親近感は無表情だからこそ。
持ち主はその時々の気持ちを共有できる喜びを得るのだろう。
僕にぬいぐるみの趣味はないが、なんだか尊敬してしまう。
2012-05-26 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

デコレーション

規模の大小に関わらず与えられた場所の前提条件を解析してこそ見えることが大いにある。
無いものを生み出すのではなく、そこに在る事を在るモノとして形作るのに精を出すのが僕の本分だ。
絵だと素描、文章では叙述、それらと同等のような作業ではないだろうか。
それは何も高等な難しい仕事ではなく、実は単純で地味で面倒くさいだけなのである。
しかし、その結果得られるものは一過性の幻想ではなく、れっきとした事実となるのだ。
だから意匠的な表現とはなり得ず、人目を惹きつける表情に繋がる事ではなくなる。
何かの役に立つ装飾をするよりも、復元できる自然を発見し受け入れてしまう事に興味が湧く。
在りもしない雰囲気を創出して感情を乞うのは、僕には少しばかり気恥ずかしい。
庭がデコレーションなのであれば僕は庭を作ってはいない。
2012-05-26 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

心と体

「心技体」などとスポーツや武道では言うけれど、心も技も磨く必要はない。
体だけが満足に動いていればそれだけでありがたい事である。
肺炎でひと夏まともに動けなかった一年前にそう実感した。
精神も技術も磨くためには体力が必要であり、健康を損うとそれだけで落ち込んでしまう。
どれだけ平凡でも毎日を健康に過ごすことができているのはすごい事なのだ。
当たり前のことに感謝できればこそ、病気をしない心とケガをしない技が養われるのだと思う。
今日も無事に爽快なくらい普通に過ごせた。もしも明日朝が来たらまさに幸運だ。
2012-05-12 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

散歩

時々散歩をする。
当然のことながら、散歩というのはただ歩くだけで目標や目的地があるわけではない。
どこかへ到着するための移動とは違い、歩くこと自体を楽しむのだ。
そこで何かを得ようとしなくてもよく、何も見なくても良い。
ただ風と光を浴びて空の下にいることが日々に必要なすべてだと知るひと時なのである。
だから社会の出来事や人々の行い、自分の欲すら滑稽に思えたりもする。
幸せを願ってはいるが今は別に不幸ではない。
貧乏ではあるが、家賃を払いちゃんと食っている。
友達は多くはないが、気の合う人はいる。
やりたい事や欲しい物はたくさんあり、それらの願いが叶うように信じて日々を過ごしている。
しかし実のところ、それが実現するかどうかの結果は無くても良いのだ。
歩くことを実感して楽しんでしまえば、そこが目的地になってしまうのだから。
2012-04-29 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

さくら

ソメイヨシノの桜並木があまりにもきれいなので自分の自然観が危うくなる。
幕末の頃、人為的につくられた園芸品種が明治政府の奨励によって全国津々浦々に植樹された。
それがソメイヨシノと名付けられたのは明治33年のこと。
それ以前の桜といえばヤマザクラであったことを考えるともっと清楚だったに違いない。
実のところ、今眺めている花満開の景色を自然のものとして捉え、桜だけ、花だけに特化して春の訪れを感じる程度の自然観では庭師としては浅はかなのだ。
栽培種だろうと外来種であろうと善し悪しを私情で勝手に判断せず、すべてを受け入れて柔軟に身を委ねるように寛容であるのが理想的だ。
花満開がサクラでなくても季節の移ろいを見つけることはできているはずなのだ。
だから、たった150年前に誰かに作られた派手で優美なクローンにウットリさせられてしまうのは口惜しい限りである。
とはいえ、桜並木がきれいなのは庭師としての自然観よりも僕の郷愁がそうさせる。
今のところ、その程度の庭師なのかもしれない。
2012-04-12 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

道具

先日、愛車('66式)のエンジンが突然止まり路上で往生した。
長い間乗っていると、そんなことは何回でも経験済みなので大した故障ではないことはわかっている。
どうせマイナスドライバー1本で数分で修理されてしまうのだ。
それでも古い車は大変な乗り物だ。
ハンドルが重くて疲れるし、振動が大きくて音はうるさく、暑くて寒い。
若干の荷物は積めるが、人が運転すること以外の機能が一切ないのだ。
しかし、走るための大きな道具としてはその方が良い。
近年の車のようにメーカーが作ってくれる快適性は何もないが、頑張って使いこなす面白みがある。
人に寄り添った誰でも使いやすい商品とは違い、自分だけの魅力を見出せるものの方が楽しいと思う。
壊れにくく使いやすいモノを選ぶのもよいが、道具にふさわしい自分をつくってしまうといつの間にかかけがえのない存在となってしまうのだ。
乗り物に限らず人と道具の関係、愛用品とは本来そういうものではないだろうか。
2012-04-03 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

エンジニア

本当は「いい天気」「悪い天気」なんてない。
人の都合によって天候が変わることはないが、感情によって区別される。
可愛い花、きれいな緑なんて最初からない。
植物は自然そのものなのであり、その活動にきれいも汚いもない。
同様に美しい庭なんてどこにもない。
なにかを施された場所においてはすべてが捏造であるから場所が美しいことがあるはずがない。
あるとすれば目の前の現象を美しくしてしまう人の心と感情ではないだろうか。
自然を愛でる心を持っているのは善良な人であり、庭師にとって大切な施主である。
庭師の役割は美しい庭をつくることではなく、美しい心に応える単なるエンジニアなのだ。
捏造の過ぎた展示物を庭としてしまうのは施主に対して失礼に値する。
だから善良で心優しい施主のため、場所をただ整えることに努めるべきだ。
2012-03-31 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

植栽

樹を植える際に元気に育ってくれるように施すことがいくつかある。
堆肥を混ぜた土壌改良や保水排水機能の調整、窒素リン酸カリウムの主要成分の施肥など。
いずれにしても特別な生長を望まなくても、枯れない事を当然とした状況をつくりたいと願う。
しかしそれは意外と安易なことではなく、容赦なく色んな結果をもたらすものである。
そんなときには自責の念に駆られたりもするが、生きるも死ぬも自然の持つ力なのだと事実を見据える勇気が必要だ。
何を施しても枯れる場合もあるし、何もしなくても根付くこともあるのかもしれない。
職人とはいえ、対自然であれば人のやる事なんて大したことではないのである。
それなのにいちいち喜んだり悲しんだりするようでは、僕はまだまだ修行が足りないという事は明白だ。
2012-03-22 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

手段と目的

工事をする現場は完成を目指す事を意識するのは当然であるが、
その行為そのものを堪能できることが魅力なのだ。・・とすると、
目的は完成で工事はそのための手段 というのは覆ることになる。
僕の仕事は出来上がる事を手段とし、与えられた場所を触る事、それ自体が目的といえるのかもしれない。
造園は作り置きして売れるものではなく、施主からの依頼を受けてからはじまる職能である。
出来上がったその場所も、そこで流れる時間も、もちろん施主のものであって僕の庭とはならない。
しかしわずかな時間ではあるが、着工から完了までの工事現場は僕やスタッフが遊ぶ庭なのだ。
だから完成は僕たちが遊び場を失うことを意味している。
僕たちが遊んだその庭がお施主さんにとって色んな想いを馳せる場所になれば幸いだ。

2012-03-16 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

事業主

確定申告のこの時期、見たくもない数字がいろいろと明らかになるが、
すべてを税理士さんにお任せしているのでとても助かっている。
うちの税理士さんはとても優秀なのだ。
節税は勧めないし、経営戦略などのアドバイスもしない。
それに売り上げ目標など余計なことはいっさい口を出さずにいてくれる。
ただありのままを出すだけ というのは誠実な仕事だと思う。
そのおかげで僕はお金に無頓着なまま一介の職人でいられるのだ。

2012-03-10 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

あした

今日も一日が当たり前に終わり、明日の仕事の予定を考える。
今日があったのは昨日があったからだ。
昨日は過去、明日は未来である。
過去にあったことはわかるが、未来のことはわからないのに明日のことを考えているのはなんだか不思議だ。
明日へは行くのだろうか、それとも明日がやって来るのだろうか。
その答えは間違いなく後者であり、あたかも自分の意思で未来へ行くかのように明日の予定を立てる僕はなかなか欲の深い人間だ。
いずれにしても明日が来ればそれだけで幸せなのだ。
2012-03-07 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

無名性


造園は場の仕事だ。
場所の在り様であり、見え様を飾ることではない。
出会うべきは可視化できるモノではなく、洗練された素朴なコトなのだ。
そのためにanonymousでいこう。
無論、つくらないをつくる。ということに尽きる。
2012-03-05 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

版築

Ca(OH)2 + CO2 → CaCO3 + H2O
明日から久しぶりにやる。
なかなかの量なので想像するだけで筋肉痛だ。
2012-03-02 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

フォーゼドライバ

我が家の息子は不憫なものである。
親である僕の方針で欲しいおもちゃを買ってもらえないからだ。
仮面ライダーの変身ベルトは相当欲しがったが、やはり買ってもらえない。
心の底から欲しいものが手に入らないと子供は泣きながら訴える。
そんな息子を見ていて、いっその事買ってあげて喜ぶ顔を見たくなる時もある。
ところがある日空き箱とセロテープを使って自分で作ってしまった。
とても感動してので褒めまくってから戦ってあげた。
それからというもの、空き箱やペットボトル、アルミホイルの芯・・なんでも彼のオモチャの材料となった。
でもなぜか作るものは武器ばかり。
そんな息子が僕には仮面ライダーよりも強く変身したように見えた。
フォーゼもメテオもかかってこい!

2012-02-29 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

たばこ

昨年5月からたばこをやめている。
自分の体が無臭、無毒のようで気分は良い。
でも、やめているといっても禁煙ではなくて「停煙」と公言している。
その停煙中の僕は気分を切り替えるのに手持ち無沙汰で休憩が下手になってしまった。
嫌われることは多いかもしれないが、僕のような外仕事での「いっぷく」はやはり良いものだ。
たばこを悪者扱いするご時世で喫煙を正当化しようとは思わないが、
時が来ればまた愛煙家になろうかな。
そんな選択肢をもっている事が今は少しだけ愉快だ。
2012-02-27 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

好き嫌い

例えば洗濯された服はチェストの引出しの一番奥へしまい、着るときは一番手前から取り出す。
お気に入りに出くわせばラッキーで、バランスの悪い組み合わせの場合は「まあ仕方ない」といった具合。
小腹の空いた夕刻、現場からの帰りにスタッフと共にコンビニに寄ってパンを買う。
そこで一緒にいる人数分だけ売れ残っている種類しか選ばない。
好きなメロンパンを食べたくても人数分なければ違うパンになる。
どれ一つとして人数分が棚に並んでいなかったら、その日は食べずに帰る。
その時の気分によって選り好みして判断するのではなく、やって来る事を受け入れることが面白い。
自分の好きか嫌いかは些細な事であって、好きが良くて嫌いが悪いのか 本当はわからない。
わかっているのは好きが良いと思ってしまう事が浅はかでおこがましいということだ。

予報によると明日は雨天。外での仕事はできないが、事務所にこもって体を休めよう。
2012-02-24 : たはこと : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

たはこと

日々思うこと綴る。またやってみよう。





2012-02-10 : 未分類 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
« 前のページ  ホーム

プロフィール

さくらいやすとし

Author:さくらいやすとし
櫻井靖敏
サクライヤストシ
Yasutoshi Sakurai

最新トラックバック

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。